Low-Fidelity

はじまりは、何かのおわり

隣の芝生で荒れる風

「何となく、今年はよい事あるごとし。元日の朝、晴れて風無し」
たしか、その年も穏やかな元日だったと思う。
毎年元旦には、どんな天気であろうとも、部屋の窓を開けこの句を詠む。
いささか安易ではあるけれども、笑う門にしか福は来ない。


渋谷から最寄りの駅までの車内は、酔いが醒めたのも手伝って、
再びお互いの正しい距離を保つことになってしまう。
まだ1日の終わりを感謝の気持ちで迎えられそうな状態には、1ミリも影響はなかった。
駅から僕の家までが車で10分、そこからななせの家まで5分位ということを知り、
タクシーを迷わず選択する。
彼女を送り、今日はありがとう、またそのうち食事でも、なんてメールをし、
喜びといくばくかの罪悪感をかみしめて明日を迎える。悪くない。
多くの矛盾と不純な感情が交錯しながらも、友達よりは親しい関係。
などと考えながら、車内でいい意味での沈黙を楽しんでいると、
彼女がドライバーに僕の家へ向かうよう左折を指示していた。
「家のそばは、さすがに誰かいるかもしれないから。」
そうだった、彼女には家族公認の彼氏がいて、僕も妹と面識がある。
彼氏はちょうど海外に行っていたのだが、油断はできない。
間男みたいな発想に、嫌気がさしつつも、残酷な現状にうちひしがれる。
自分で選んだとはいえ、客観的に顔を出す現実は、やはり厳しい。
沈黙を楽しむ余裕は旅立ち、ジェットコースターのような感情の落差の動揺を
車窓の外に捨てるのに精いっぱいになる。
距離感と温度感というのはとても大切だ。間違えなければ、また彼女に会える。
初詣、手をつないで歩く、おいしいものを一緒に食べる。
十分目的を達成しているのに、贅沢な話だ。謙虚さはまだ正月休みらしい。
翌日は、仕事初めの日曜日。21時過ぎにしてはありがたいくらいに車の数が少なく、
予定よりも早く沈黙の時間に終わりを告げる。まだ風は味方している。
「今日はありがとう、また連絡する。きっと、すぐに。気をつけてね。」
タクシー代に当時の僕なりに見栄をのせたお札を渡そうとした時、
コーンポタージュ、家にあるんだよね。」
「あるよ、たくさんあるからあげるよ、少し待てる?」
死角から放たれる殴打で、脳が揺らされたのかもしれない。
まったく意味のない、まぬけな切り返しをする。僕の純真さは露呈したかもしれない。
部屋は汚いし、飲み物も無いし、片付けるのに待たせるし...
あの時の往生際の悪い自分は、オールタイムワーストに認定したい。
20数年の人生の中で、はじめて女性を部屋に入れるイベント勃発。

 

タクシーは、あきらかに暇なくせして待つことを渋った。
玄関には、満面の笑みの彼女が立っている。
モノというモノも無い部屋で、深呼吸をすべく片付けるフリに勤しむ。
部屋を見て、コーンポタージュを飲んだら帰る。それ以上を考える余裕はなかった。
テレビとソファしかない部屋、布団しかない寝室、洋服とガンプラ置場。
独り暮らしには十分な間取りだが、モノがないのは玄関からも明白で、
返事を待たずに入ってくる....
電源の抜いてある冷蔵庫、サイドテーブルすら無いソファまわり、
ひとをもてなすことをまったく拒否しているただの箱。
僕の入居以来、初仕事となるコンロが懸命にお湯を沸かしている。
彼女をソファへ座らせ、反対側の端に居心地悪そうに僕も座る。
「広いね。」「むだに...ね。」
行動や返答内容が3択で表れて、選ぶゲームならどれだけ救われただろうか。
結局、コンロの初仕事は、ほろ苦いものになった。
用意したカップスープは、キッチンで軽快に冷めていく。
サイドテーブルくらいは、買っておくべきだった。
でも、なくて正解だったのかもしれない。
マグカップ達をキッチンに置き去りにしてソファに戻ると、「遠すぎる」、と。
あえてバカっぽく近づき、手をつないで座る。
右手に神経を集中していたせいで、右肩に彼女がもたれかかっているのに
しばらく気付かなかった。
良心とか、理性とか、純真さが次々と休暇の申請をしてきた。
彼らにしずかうなづき、花びらが落ちる速度よりもゆっくりと距離を近づけていった。

 

つづく